敗者復活戦 H13・9/19
 河原の土手に陽子は腰を下ろして4人が綺麗にオールをそろえてすいすいと川面を滑って来るボートを見ていた。少し離れたところでビデオを回しそのボートを撮っている先生らしい男がいる。ビデオに撮ってフォームのチェックでもするのだろう。

「私にもあんな時があったんだな〜」
陽子は隣に仰向けに寝ている健二の方を向いて言った。陽子は高校生の時にボート部に所属していた。
「何が?」健二が上半身を起こすと 紺色の揃いのシャツを着た女子高校生達のボートが二漕で競いながら河口から上がってくるのが見える。
「シェル艇よ!」と陽子が言う。
「シェル艇?」健二は聞いた。
「あなたが市民ボート大会で漕いでいるのはナックル艇、彼女たちが漕いでいるのはシェル艇なのよ。もし大会がシェル艇だったらほとんど沈没ね。」と陽子は言い、からから笑った。

 健二がその訳を聞くと陽子は艇の形の違いを教えてくれた。「ナックルは拳、シェルは?」
「貝だろ。ガソリンスタンドのマークにある。」健二が言う。
 陽子はシェル艇は貝のように 艇の断面が半円形に近いためバランスをとるのが難しく 艇が傾いても復元力があまり働かないため初心者はたいていひっくり返すと健二に教えた。

 春の大会に向けて練習をしていたときの事だ。
「広田!広田!戻れ!」岸からメガホンで大声で叫び監督が大きく手を振っていた。 ゴールまで20m程だった。オールを漕ぐ手を止めてもボートは加速がついたままゴールを通り抜けた。
 
 監督の車に乗せてもらって病院へ急いだ。個室の病室で母と妹が痙攣している父の手を握っている。
「お父さん、お父さん、」中学生になったばかりの妹が顔を父に近づけて泣いている。 父はものすごい寒気でもするかのように全身を痙攣させているのが布団の上からでもはっきりわかる。意識はもうないと母が言った。陽子は病室から逃げ出したくなった。

「お父さんの好きにしてあげようね」と母はいつからか言うようになった。 母は父の病気を知っていたのだ。父は自分の病気を知っていたのだろうか。亡くなる2週間前まで市役所に勤めていた。今は妹も嫁ぎ、母は一人で実家で暮らしている。

「健二はい!」と陽子は言い持っていた布のバックからアルバムを2冊取り出した。健二が写真を見たいと言ったわけではないが陽子は健二に写真を見せたかった。
 陽子の小さい頃からの写真と家族と写したのが一冊。もう一冊は陽子の子供達とのスナップでバドミントンをしている写真、プールで撮った写真、そして夫と一緒に撮った写真もあった。

「幸せそうでしょ」陽子はにこっとしながら健二を見た。 健二は陽子の夫の写真を見るのは初めてだった。 つい自分と比べてしまう。
「ファザーコンプレックスなのよ。」と陽子は前に健二に言っていたが写真で見る男は健二に特に何も感じさせなかった。  同窓会で再会して以来陽子と健二は時々会っていた。陽子は健二といるとどうして心が安らぐのだろうと考えてみるが明確な答えは出ない。夫には悪いと思いながらも健二から電話が来ると出かけてしまう。足の悪い義母に言い訳をして出てくるのがつらいのだが習いに通っている陶芸教室の友人と会うと言うのが今の口実だ。

 普段着に少し化粧はするが疑いを持たれないようには努めている。 健二と会うのは陽子にとって最初は夫に対するささやかな復讐だった。しかし今では復讐ではなく自分のためなのだと思うようになった。
 ある時夫の車のダッシュボードを開けたときに夫が陽子の知らない部屋のベッドにパジャマで女性と腰を下ろした写真が出てきた。時々夫の会社でバーベキューをする時に手伝いに行くことがある。そこで見かける女性だった。

 頭が白くなるとはこういう事を言うのだろうと思った。陽子にとって夫は初めての男だった。22歳の時である。そしてまもなく結婚し子供ができた。それ以来ずっと専業主婦をしている。
自分は夫しか知らないし、それ故に夫も自分しか知らないとは思わないが 結婚してからは自分しかいないと思っていた。 趣味で通っている陶芸教室に一緒に通っている主婦の中にはお茶を飲みながら夫の浮気の話をするものもいるが陽子にとっては縁遠い事だと思っていたのだ。いつも仲がよい両親を見てきたからだろうか。 写真を見つけて以来もやもやした思いがずっと頭の中にあるのだが口げんかさえしたこともない夫に対してはとても聞く勇気もない。

 子供たちは夫が帰ってくると学校での話を毎日のように教え夫は笑いながら聞いている。それが何処にでもある普通の家庭なのではないだろうかと陽子は思う。
 もしそんな夫が言い訳もせずあっさり認めたらどうしよう。 それが陽子には怖いのである。

 そんな時に陽子は高校の同窓会で健二と会った。15年も前の出来事が二人でいるとついこの間の事のように思える。 夫には話せないこと、見つけた写真の事、陽子と健二は喫茶店で 公園で、河原の土手で時折話し込みながらいつしか互いに相談相手になった。

 ある時は家庭の話、ある時は今読んでいる本の話。陽子にはサラダの作り方などを話す健二が可笑しかった。
 陽子は時々健二が返答に困るようなことを言う。
「もし私と別れたくなったら急に言わないで早めに言ってね。心の準備をするから」 陽子は健二が体を求めても絶対許すことはないのにそんなことを言うのだった。

 上流へ上って行った二漕のボートを見ながら
「どこかになにかを忘れてきたのよ。私たちって」と陽子が不意に言った。
「忘れてきたんじゃなくてたぶん見つけることができなかったんだ。」と健二は答えた。
「水辺って心を癒すって言うでしょ。命が水から育ってきたからかしら」と言い陽子が両手大きく組み上に伸びをした。

  陽子の髪は髪留めで綺麗に後ろにまとめられ髪の毛はガーナチョコレートのような光沢をしている。 雲の切れ間からの陽光に照らされた耳たぶはうっすらと光って見え、その先からは今にも滴が落ちそうだ。
 すらりとのびた腕はたるみもなく青く皮の薄いプラムに肌色のファンデーションを塗ったように見える。

 少なくとも今の陽子にとって健二は必要なのだ。 健二にとってもきっと私が必要なのだと陽子は思いこんだ。
 川の水に手を浸した陽子の隣を、ボートを寄せる板敷きをきゅきゅと鳴らしながら素足の高校生が二人ボートを抱えて行った。その音が気持ちいい。
 「ボート競技って敗者復活戦があるのよね」と陽子は眩しい太陽を気にもせず健二を見て微笑んだ。

トップページヘ Drの一気読切 目次へ