訪ねてきた同級生H11・2/28
1975年、高校3年生の秋になるとそれぞれ進路が決まってくる。 国公立は最初から捨て(学力不足と数学が苦手のため)学費が安く自分の学力に見合った私大を探し始めた。 そして二つの大学に的を絞った。神奈川大学と駒沢大学である。 学費は初年度神奈川が19万 駒沢が26万ぐらいだったと思う。探した中では最も安かった。 友人から親に迷惑をかけてまで進学するのかと言われたが、私は岡林の歌ではないがとにかく田舎を出たかった。 結局駒沢になんとかひっかかり学生の最初の2年間は埼玉の親戚のところにいた。 埼玉にいたとき東上線の志木の駅前の楽器店で2台目のギターを買った。グレコのレスポールモデルで4万5千円くらい。初めて買ったトムソンのストラトとテスコのアンプはすでに高校の3年の時に後輩に売っていた。このトムソンは6弦が17フレット付近で指板からずれているという代物だったので見切ったのである。 この時買ったグレコはまだ持っている。誰かが国産もオールドになりえると言ったがこれはなるわけはないが思いでのあるギターだ。 ステージに出すことはほとんどなかったが、世田谷に引っ越しをし金がなくなるとよく松原の質屋に持っていった。ハードケースを開け質屋の親父に見せるといくらほしいと聞く。「5000円」と答えると親父はギターを手に取ることもなく金をよこす。2、3回もそういうことをしていた。 コートやカセットコーダーを他の質屋で流したことはあるが、このギターだけは流さなかった。78年頃仕送りを7万円もらっていたが、母親の1ヶ月の給料をそのまま送ってもまだ足りなかったようだ。 その仕送りの中から買ったギターだった。 ・・・・・・・・・・・ 当時家賃が16,000円の四畳半に私は住んでいたのだが 春先のある時狭山のH社の自動車工場で季節工として働いていた中学の同級生のSが訪ねてきた。電話などは引いていないので連絡もなしに訪ねて来ることになる Sは紺のトレンチコートを着込み首に女がするようなスカーフを巻いていた。そして遊びに行こうと言う。 歌舞伎町に行こうと言うのである。歌舞伎町のどこへと聞くと、わかんないけどとにかく歌舞伎町という。「日本最大の歓楽街の新宿歌舞伎町」Sの頭には当時の地方から来た青少年の憧れか?とにかく歌舞伎町と言うのである。 |
社員旅行でおじさん達が東京に行くと上野のアメ横 それに秋葉原に行きたいと言うのとなんら変わりないが、私は夕方まで待てと言い、以前1度だけ行ったことのあるアップルハウスというディスコに連れていった。 金はなかったがSが季節工をやめたときにもらった退職金があるというので、心配するなと言う。入場料は2000円くらいだったか、二人は毎晩のように出かけ、ディスコが開く前はゲームセンターなどでルーレットなどをしていた。 ある時Sがゲームセンターの競馬ゲームの前から動かず、レースが終わるとその結果を紙に書き付けているので、何をしてるのだろうとのぞきながら聞くとSは「何レースか回ると必ず繰り返しになると思うから、その後前の通りかけていけば、みな取れる」と言い「まだまわらないなぁ」と言う。Sのデータは100レースくらいである。 私はあきれてしまい、「そんな子供だましみたいなことがあるわけないだろ!1万回回ったって絶対無理だ。演算とかそんなのがあるんだから」 私は自分の数学に対する無知を棚に上げSにやめろと言った。演算とかの意味は知らなかったが言葉だけは覚えていたので出たのだった。 ・・・・・・・・・・ こういう生活は長くは続くものではない。 ある時Sの父が旅行先の台湾で倒れ日本に帰ってきたという連絡がきた。(電報だったかSが家にたまたま電話したのか忘れたが) Sは秋田に帰る事になったが心細いので一緒に帰ってくれという。 私とSは列車に乗り食堂車両でビールを飲みながら陽気に話をしていたが新潟平野の田んぼの真っ白な雪が目に映るに連れSはだんだん無口になっていった。もう4〜5時間で秋田に着く。広がる雪が二人にその時間の早さを教えていた。 Sと別れ家に帰ると父から何で今頃帰ってきたと怒られたが何も答えず2日だけ泊まり東京に戻った。 その4.5年後Sの父は他界した。 ・・・・・・・・・・・ この文は「ロックは死なないだろう」に載せるつもりでしたが、書いている(打っているか?)うちに音楽と関係ない話になったので 「埋没した日」に入れました。 |