二宮金次郎(尊徳)について
二宮尊徳 にのみやそんとく 1787〜1856
- 江戸後期の農政家。通称は金次郎。相模国栢山(かやま)村(神奈川県小田原市)の農民の子として生まれ、はやくに父母と死別したため伯父にあずけられる。農作業を手つだいながら独学で読み書き・算術をおぼえた。夜なべ仕事や荒れ地に菜種を植えることで、少しずつ財をためて田畑をもち、20歳のとき生家を再興。田畑を小作地として人に貸し、自分は雇用人となって効率よく現金をかせいだ。
- 奉公先で才覚がみとめられ、1818年(文政元)小田原藩の家老服部家の財政立て直しをまかされると、きびしい倹約と小田原藩からの借用金運用によってこれを成功させた。さらに藩士のために五常講という金融制度をもうけ、藩に枡(ます)の統一も意見している。つづいて小田原藩から分家の旗本である宇津(うつ)家の財政再建を命じられ、23年には一家で宇津家の領地の下野(しもつけ)国桜町領(栃木県二宮町・真岡(もおか)市)へうつり、荒廃した農村の復興にとりかかった。
- 尊徳は、農民の生産力に応じた消費を分度(ぶんど)としてさだめ、生活の勤倹と最新の農業技術を指導。分度によって生じた富は推譲(すいじょう)と称して村に還元することをおしえた。これら一連の施策は報徳仕法とよばれ、天保の飢饉(1833〜36)をのりきって桜町領の再興をなしとげ、1837年(天保8)仕法を終了した。尊徳から指導をうけた農民も、小田原藩領や北関東・東海地域の農村で報徳仕法をおこない、下野国烏山(からすやま)藩・陸奥(むつ)国相馬藩・小田原藩でも実施された。42年に御普請役格で幕府にとりたてられ、53年(嘉永6)日光神領での仕法を命じられ、55年(安政2)今市にうつるが、翌年死去。著作は「三才報徳金毛録」など。
- 門人たちは、幕末〜明治期に各地で結社方式の報徳社運動を展開する。運動は明治政府の農業政策とむすびついて全国に普及、1924年(大正13)には大日本報徳社が結成された。1891年(明治24)幸田露伴「二宮尊徳翁」によって、薪(まき)をかついで読書にはげむ少年二宮金次郎像が提示され、これが国定教科書に採用されたことで修身(道徳)の教材としてひろく知られるようになり、全国の小学校の校庭に金次郎の銅像がたてられた。
「マイクロソフト・エンカルタ97エンサイクロペディア」より