鳥 海 山 風 土 記
    

         矢島口登山道を開創したのは、美濃国から移住して来て農業をやっていた比良衛、
                多良衛の兄弟で、嘉祥3年(850年)矢島口登山道を開いたと伝えられている。
         鳥海山修験道の発達について考えると、場所としては矢島、吹浦、蕨岡、小滝沢
        等に在ったが、同じ系統のものではなかったように考えられる。鳥海山境の争奪は
        単なる山争いだけの問題でなく、各々歴史的立場を主張していることから考えても
        その背後にはその系統並に成立を異にしている点が、この争いを更に激化せしめた
        ものであろう。

         山は汚れのない聖地、天にいる神と最も近い所としておそれあがめられて来た。
        高い山ほど霊能が保たれ、ときには火を噴く山はおそれられもし崇敬のまとでもあ
        った。
         この地の霊峰としての鳥海山もまた住民が畏怖念をおこす山であった。
        そこに自然、山の信仰が生まれ、山伏修験道が発生していったものだろう。山嶽の
        険しい峰に踏み入り、難行苦行を克服し、山の霊気にふれるとき、はじめて心身が
        鍛えられる。そして山の噴火は山の怒りであった。
         霊峰鳥海山。この火の山での人間の極限なまでの修行に参じた修験者の神秘につ
        つまれた心奥体験は、密教のもつ独自の呪術的な宗教として修験道は展開してゆく。

         そして鳥海山の火山活動が穏やかになるこのころからますます発達隆盛を極めて
        いったのであるが、元禄14年(1701年)蕨岡口側と矢島口側が、大物忌神社
        の管理権をめぐって論争となり、ついに嶺境の訴訟に発展しそれが、庄内、矢島両
        藩の争いとなっていった。
         そこで幕府の裁決を仰ぐことになり、42人の検使役が実地検証をした結果は、
        「笙が岳腰より稲村岳の8分にわたり、東は女郎岳の腰までをもって両郡の境界と
        定む。由利郡の山腹7合目より、以南は飽海郡なり」という大岡裁きによって山頂
        は山形県に属するようになった。

         標高2、236m、東北第一神秘の名山とうたわれた。そのあくなき眺望もさる
        ことながら、雲海の壮観、秀麗な影鳥海の奇観も有名である。
         登山口は、秋田県側が象潟口、百宅口、矢島口、猿倉口。山形県側は吹浦口、蕨
        岡口、湯の台口、となっている。

【出典】本荘・由利新風土記(高野喜代一著)